『いつぶりだろう?』

って思い出せないぐらい久しぶりに渋谷に行ってきました。
電車に乗るのも懐かしさすらあるほど。

コロナ騒ぎで電車に乗らなくなってから、『世の中の電車ルールが知らないうちに変わっていたらどうしよう…』とか変にどぎまぎしてしまいました。

この日会いに行ったのは、ホスピタルアートに詳しく、空間を大事にする友人。
彼女がここに住みたいというほどお気に入りのレストランでランチをしました。
吹き抜けで、植物が沢山あり、本棚もありました。

もちろんとても素敵なレストランでした。
でも私は、自分の家が大好きなので、素敵だなと思っても、基本的にどこかへ行きたいとか他のところに住みたいとかあまり思ったことがありません。
都会的なものにも全く興味がなくて…
でも、だからこそ意識的に用事を作って出ていくって大事だなって感じました。

友人が、会話の中で『解放とは…なんて説明する?』って振ってきました。
私は『枠を取り払うこと、かな』って答えました。

枠が無いと解放は存在せず、枠の外に出てみないと枠の存在には気が付かなかったりする。
解放されたいってよく聞くけれど、何の枠もなければ解放の幸福感もないはずと思うと、枠って邪魔なようだけれどやっぱり必要で、
ただ、そこを自由に出たり入ったりできたら理想だなって思います。

そのためには、自分が枠の中にいるということを知っていなくてはいけませんね。枠に入っていることに気が付かずにいるとむやみに閉塞感にさいなまれたりするのでしょうね。

私は、久々に安住の地を出て、渋谷という刺激的な街に行きました。
久々の電車にも乗ったし、もう外国に行ったぐらいの気分。

私にとっては、友人に会いに行くとかでなければ基本的に一生行かなくても困らないぐらい無縁な街となってしまっています。
しかし!
外に出ると、こんなにも違う価値観の人がたくさんいて、ルールが違う人がたくさんいて、こんなにも違う環境があることを知る。
そこで初めて自分にとっては空気みたいな高麗での生活は逆の視点で見れば『高麗という枠』に入った異質な世界なのでしょうね。

とても抽象的なお話になってしまいましたが、要は違った刺激が入らないと、人は何にも感じないようになっている。
これは心も、身体も同じこと。

時には新しい事に思い切って踏み込むことによって、自分の現在地がわかるよね、っていうお話でした。